第一回
はじまりはランプの油
全国のパティオネットを訪ねる企画として『ガスのある風景』というタイトルでシリーズ連載することになりました。第一回は、大阪「まいどネット」のシェル石油大阪発売所さんを訪問しました。
大阪「まいどネット」の歴史は古く、明治二十九年に徳島生まれの鴻野沖三郎という方が、弱冠二十五歳の時に鴻野石油店(現シェル石油大阪発売所)として始められたそうです。鴻野石油店の歴史は、日本の石油の歴史といって良いぐらい時代の変化と共に変遷しています。
明治初期は、石油といえばランプ油(通常灯火用灯油)のことで、電気の代わりに灯りとして使われていたらしく、五ガロン缶二つを入れた木箱が二円程度でした。この木箱を大八車に乗せて行商されていたのが、当時の風景だったようです。
写真にあるのれんもとても興味深く、のれんといえばおそば屋さんや和食屋さんを思い浮かべますが、明治の時代では石油店にものれんがあって、木戸をくぐって買っていたのでしょうか。
時代と共に石油の扱いも変わり、明治、大正、昭和と灯油から軽油・重油と需要も変化し、灯りに使われていたランプ油も徐々にガス灯や電灯に移り変わりました。灯油の需要は急激に減退したと聞きます。石油の扱いが、灯りをともす用途ではなく、バスやタクシーといった機械を動かす用途として変化していきました。
昭和初期のガソリンスタンドは今とは全く違うスタイルで、計量する機械は手回しで量って販売していました。女子従業員も、当時としては斬新な「白エプロン」を着用したり、事務服のような制服姿で『ガソリン嬢』や『ガソリンガール』と愛称され、若い女性には憧れの職業であったようです。
シェル石油大阪発売所の社章となっているマークは、非常にレトロチックなデザインですが、シェル石油大阪発売所と昭和シェル石油との長い歴史を感じさせ、誠実な会社の姿勢がうかがえます。
その一方、大阪は「お笑い」の街でもあり、真面目さだけでは勝負にならず、お客の懐に入って話を聞きながら商売をするのが基本。例えば、ボケてくるお客様には、つっこみをすかさず入れる「ボケとつっこみ」のテンポがないと成立しないそうです。
また、大阪といえば「おばちゃんが、強い」というのも有名です。おばちゃんを敵に回したら、商売にならないみたいです。大阪のおばちゃんのうわさ話は強烈で、一度良くないうわさ話が出てしまうと、にっちもさっちもいかなくなると伺いました。その代わり、安い店を探して歩くおじちゃんと違い、一度おばちゃんの心を掴んでしまうと、長く長く愛されるそうで他のお店などには目もくれない律儀さがあるようです。大阪の人情味の溢れる話であります。
戦中戦後、オイルショック、大阪万博、バブル景気、そして崩壊という波乱に富んだ時代を幾度も乗り越えてきた大阪「まいどネット」のシェル石油大阪発売所さん。
今、石油高騰の時代にあっても、確実に人のハートを掴み、省エネ・エコという新しいニーズを取り入れ、乗り越えていく会社だと思いました。
左)創業者・鴻野沖三郎
右)(左から順に)昭和5年頃の移動ポンプ、昭和3年頃のガソリン計量器、「ポータブル計量器」を100周年記念にデザイン化したもの
第二回
全国屈指の人気スポット湘南
神奈川県の湘南ネットは、初めて弊誌、情報誌『パティオ』を取り入れたプロパンガス販売店の集合体
湘南ネットは、藤沢を中心とするエリアに広がっています。もともとの名称は、「湘南昭石プロパンガス協同組合」。地域住民の方々に,地元に根ざしたサービスを提供するため、藤沢・茅ヶ崎・逗子・戸塚のガス販売店が集まりました。
ところが他業種と同様、平成の規制緩和によって、単なる価格競争になり、お客様へのサービスの質の低下という混乱が起きました。
本来のプロパンガスをはじめ、給湯器やガステーブル、炊飯器やエアコンなどの空調機の急ぎの修理、保全といった大切なアフターサービスまで支障が出始めています。
地元ガス販売店「湘南ネット」にとって消費者不在のこのような混乱は、避けなければなりません。そこで血の通ったサービスをお客様にお知らせするため情報誌『パティオ』を活用してコミュニケーションを図っています。
湘南ネット周辺を地域的にいえば、昔は藤沢や湘南地域は別荘地として有名でした。都心からも比較的近く、風光明媚で温暖だったからでしょう。その影響もあってか、この地域に住む方々は、公共マナーやエチケットも良く街として気品があります。今では都市のベッドタウンとして多くの住宅が建ち並んでいますが、以前の風景は、政治家、有名人、資産家など湘南の鵠沼などに大きな邸宅が並んだと聞きます。
湘南は、都会の空気を敏感に感じる地域。都心に通う人々が多い影響もあって、話題の太陽光発電やホームセキュリティといった時代の先端を取り入れるのも盛んです。今後は、地域環境を取り巻く問題に対して、エコ活動・ソーラーシステムなどを全国に先駆けていち早く取り入れていく地域だと思います。
一方、湘南といえば海、江ノ島や相模湾を中心とするサーフィンやヨット、釣りといったマリンスポーツが盛んです。また、加山雄三やサザンオールスターズを中心とした多くのアーティストのヒットソングもこの土地から生まれました。
さらに古都鎌倉や東海道の要である宿場町藤沢は、歴史深い観光地でもあり、趣深い文化を訪ねる街でもあります。一遍上人が踊念仏をはじめ、更科日記や西行、方丈記の鴨長明がこの地を詠いました。葛飾北斎や歌川広重が浮世絵を描いたのも有名です。今と昔が、上手く共生している街です。
海に面した住宅では、戸外にシャワーが取り付けてあるのも珍しくありません。サーフボードが何気に家の壁に立てかけてあるのを見かけます。街道沿いでは、古くからの土塀の蔵もあり、昔ながらの街道沿いの風景を見ることも出来ます。
湘南ネットは、時代の空気を敏感に受けながらも温故知新の情緒を絶やさない街といえます。
左・右)江ノ島を中心とする相模湾では、多くの観光客で賑わいます。
第三回
お公家さんの町 京都
京都の中心地に本社を構える山川株式会社(舞妓はんネット)は、明治二十五年に山川油店として創業しました。
当時の油といえば、電気の代用として使われていた灯り用のランプ油のことを指します。
しかし、ランプ油は時代と共にその姿を消し、電気が普及した頃、昭和二十七・八年頃からLPガスも普及しはじめました。
京都でのLPガスの普及は、市内よりも田舎の方へ広がっていきました。当時から市内は都市ガス・郊外はLPガスと棲み分けができていて、エリアを取り合う事も無かったようです。
ガスが各家庭に引かれ、しばらく経っても、京都ではまだ「かまど」や「七輪」、「火鉢」が日常で使われていました。その理由は、ガス器具が現在のように気軽に買えるものではなかったからです。ガスを使える家庭は、ほんの一部の裕福な家だけでした。ガスが生活の一部になった今でも、古い歴史を持つ京都では、未だに「かまど」を使う風流なお宅もあるようです。
今から三十八年ほど前、昭和四十五年頃には、若かりし現山川株式会社 松浦社長がガス機器とLPガスのシリンダーを持って個人宅に営業にまわっておられたそうです。機器とシリンダーをセットで持ち運び、使い方も説明して歩いたため、今まで薪を使っていた人たちも「こんなに便利なものはない!」と、どんどんLPガスが普及していきました。1軒ガスを使い始めると、連鎖反応のように需要は増えていったそうです。
そして、車が普及しガソリンの需要も増え始めると、コンピュータが無かった昭和初期のガソリンスタンドでは、常時五十人もの事務員さんをかかえ、給油するガソリンの計算や伝票を手書きで出していたそうです。現在のスタンドやセルフスタンドと比べると、とても考えられない光景です。
そして現在、京都では古都の景観を守るために厳しい景観条例が実施されています。特に条例の厳しい風致地区では、自分の敷地内であっても必ず市に届けを出して許可が下りなければ、どんな小さな工事もできません。エアコンの室外機ですら、そのまま外に置できないので、プロパンガスのシリンダーはなおさら。家の中の裏口に置くケースもあるほどです。
そんな厳しい条例のなか、山川株式会社で大々的に進めている太陽光発電「ソラシス」の設置が認められました。景観を守りながら環境に優しい商品ということで、数多くあるソーラーパネルの中でも「ソラシス」にだけ設置許可が下りたそうです。
また、京都といえば、都。長い歴史の中でお公家さんのいた町です。ですから、内を守る習慣が身についており、ご近所同士でも身内のように深いお付き合いが根付いています。その反面、外から入ってくる人は、なかなか受け入れられづらいこともあるようです。そういった歴史背景からみると古い昔なじみのガス屋さんは、身内のようなもの。信用が高く長いお付き合いをされている場合がほとんどです。家の中に入れてもらい、裏口にガスシリンダーを設置することも、京都では並大抵のことではないようです。
左)昭和36年 山川商事株式会社設立。シェル石油(現在の昭和シェル石油)特約店に
中)昭和42年7月 五条大橋SS改装。当時のガソリンスタンド販売所の風景
右) 平成元年 山川ガス株式会社30周年記念パーティーに舞妓さんが駆けつけました
第四回
歴史と情緒あふれる真庭
岡山県真庭市にある道満石油店と大美石油店からなる「真庭ネット」
岡山県は大きく分けて、「備前」「備中」「美作」と分けられ、「備後」とは広島を指します。この「真庭ネット」は岡山県の北部にあたる「美作」の地域です。観光地としての見所も多い土地で、牧歌的な景観が広がる蒜山高原は「西の軽井沢」として多くの観光客に親しまれている西日本有数の避暑・リゾート地です。
真庭市内の勝山は、かつては出雲街道の宿場町として、さらには中国山地と瀬戸内海を結び、塩や米などの物資を運ぶ高瀬舟の発着場として賑わった町です。今でも勝山の町並み保存地区では、高瀬舟の発着場跡、城下町のたたずまいを残す白壁やなまこ壁の家々など、歴史を感じさせる風景が残ります。
この真庭市にLPガスが広まったのは、今から四十六〜七年前。LPガスシリンダーとひと口コンロのセットは当時画期的な商品で、「青い炎で火力が強い!」「安全でこんなに便利な物はない!」と飛ぶように売れたのです。 LPガスが普及する前は、薪を使って煮炊きをていました。その後にはストーブに似た形の「石油コンロ(サロンヒーター)」が一般的でした。しかし、安全性や手間、効率のどの面から見てもガスコンロは魅力的だったため、多くの人が買い求めました。ちなみに、今でも石油コンロやサロンヒーターは、煮炊きも出来るストーブとして販売されています。火鉢のようなどっしりとした形で、煮物を炊いたり、お餅を焼いたりしたことを覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
真庭市には、有名な温泉地でも知られる湯原温泉もあります。開湯は弥生時代後期という説もあるほど歴史があり、今でも情緒あふれる温泉街と温かい人柄に出会える町です。古い温泉宿では、昔、夜ごと行灯の油を絶やさず旅人を迎え、道中の提灯の油も提供してきたというお話がありました。昔から温泉街と油というのは深い繋がりがあったことがわかり、またLPガスの時代になっても、人と人との繋がりが変わらず続いているのだと感じました。
左)高瀬舟の発着場跡。船から荷物を運ぶための階段が河原から各家々へとまだ残っている。
右)町並み保存地区の城下町勝山。白壁やなまこ壁(ひし形の模様)など古い町並みが美しい。
第五回
煉瓦と深谷ねぎと渋沢栄一の街
埼玉県北部の利根川と荒川に挟まれた地域に位置する深谷市
この肥沃な土地の「彩北ネット」は、深谷市にある飯島商店、卜部商店、岡部プロパンの三店舗で構成されています。『彩の国さいたま』のキャッチフレーズと県内の『北部』に位置することから「彩北ネット」と名付けられました。
深谷市といえばシンボリックな赤煉瓦の駅舎があるJR深谷駅。まるで東京駅を思わせる赤煉瓦造りは、元を辿ると、明治時代に東京駅が深谷の煉瓦で造られたことにちなんで建てられています。
深谷の偉人であり、近代日本経済の父といわれる明治の大実業家・渋沢栄一が明治二十年に日本初の機械方式による煉瓦工場、日本煉瓦製造会社を設立し、ここで作られた煉瓦は、明治時代の代表的レンガ建築である、司法省(現法務省)・日本銀行・東京裁判所・東京大学・東京駅などに使われました。これが『煉瓦の街、深谷』のはじまりです。
深谷は明治以降、養蚕業・窯業・煉瓦製造業と発達してきました。全国的に有名な「深谷ねぎ」も明治三十年頃から本格的に栽培が始まったようで、道の駅「おかべ」では、深谷ネギを活かしたネギみそせんべいが販売され、大変人気があります。
LPガスが一般家庭に普及し始めたのは、昭和三十年代頃。それまでは、養蚕業が盛んだったこともあり、蚕が食べ終えた後の桑の木も大切な燃料の一つだったと聞きました。養蚕業から他の農産物も扱うようになるとLPガスの需要も次第に増えていきます。 首都圏に近い立地を活かし、農業は近代的経営のために土地改良、農道整備などが行われ、ねぎを始めとした野菜類の首都圏への供給地としてさらに発展しました。キュウリやトマトなどのハウス栽培では、LPガスも多く使われています。 また、南部を中心とした地区では、野菜類のほかにも深谷市の花でもあるチューリップや切り花に使うユリなどの花卉の生産も振興しています。
深谷は、文化の先端にあったハイカラな街という一面を持ちながら、人情味あふれる人々が入り交じった素朴な街でもあります。
第六回
地元に根ざした気遣いクラシエネット
三重県桑名市にある川越ガスは、桑名城下の落ち着いた情景とはまぐりで有名な揖斐川の河畔に。
桑名城といえば徳川四天王のひとり、本多忠勝が建てた城。その後、松平家が長く治めた城下町でも有名です。この桑名城跡は、九華公園として今も地元の人々に愛され続けています。その影響かこの桑名は、比較的落ち着いていて穏やかな風土が根付いています。
一方、「その手は桑名の焼きはまぐり」というお江戸の洒落言葉に代表されるように漁師町としても有名で、漁師の荒っぽさと口の悪さが玉にキズですが、一度信用をつかんだら長く愛されるという気分の晴れやかな街でもあります。
クラシエネットの川越ガスは、この様な環境の中で育まれて創業から二十七年、地元に密着した生業をやってきました。創業は、車一台から興したという伊藤会長が地道に会社を育て上げ、今ではタンクローリーなど八十台を有し、プロパンガスでは多くの販売店を持つ全国でも有数の昭和シェル石油の特約店として発展しました。
そして平成十八年四月、プロパンガス部門だった川越ガスを分社化し、川越ガス株式会社として、より一層地元に密着した企業として独立させました。
「ガスの交換に来ました」と元気よく挨拶することをモットーに、地元のお客様のアフターフォローを強化して、お客様との密着度をさらに強めて地元にある企業を目指しています。去年には、新社屋が完成し、ますますスタッフ一同一丸となって地元貢献に励んでいます。
桑名市一帯は、すぐそば東側に海があり、西には自然豊かな多度山系を望む南に面した温暖な土地。この桑名市は、一度住み慣れてしまうと他に転居できないほど住みやすく、居心地の良い土地柄。だから川越ガスの使命も自然と顧客との長いお付き合いになります。 欠かさず行われる保安点検や緊急対応の訓練、リフォーム事業、これから発展していくと思われるソーラシステムの普及や燃料電池などなど多くの課題を抱え、『ふれあいを一番大切にして』地元のお客様訪問を欠かさず行っています。
第七回
雪国ならではの対応で地域貢献を目指しています
人情に厚く、親戚関係をはじめ知人や友人との繋がりを大切にする土地柄
今年、大河ドラマで熱い注目を集めている新潟市。また国民的なヒット曲「千の風になって」の故郷でも昨今有名になっています。大河ドラマの内容と同様に人情に厚く、親戚関係をはじめ知人や友人との繋がりを大切にする土地柄。この新潟市に創業81年を迎えた越後ネットの「カネコ商会」があります。
カネコ商会は、高圧ガス、LPガスや医療用ガスの地域トップ企業。LPガスの歴史は古く、昭和29年にはいち早く新エネルギーとして取り入れました。現在は、医療用ガスも扱い社会貢献の一環として「安心・安全・安定したくらしづくり」を目指しています。
豪雪地帯でも有名な地域。一晩に30センチ降ることもざらにあるそうです。新潟にふる雪は、北海道のさらさらとした雪と違い重くずっしりとした雪。その訳は、気温がマイナスを頻繁に記録する北海道と違い、比較的温度が下がらないために水蒸気を多く含み、重くなるからだといわれています。そういった雪質なので一旦固まってしまうと大変で、道路の除雪や屋根の雪下ろしは厄介だと聞きます。
除雪体勢の困難な地域では、頻繁にLPガスをお届けするというのは難しく、ご家庭に越冬用としてLPガス容器を増やすという工夫もされています。大雪が降る地域故に、「特に保安管理を徹底しています」というお話を聞きました。
近年、中越及び中越沖地震などの災害がこの地域を襲いました。生活に大切なライフラインは、完全にストップしてしまい多くの人びとが困難な状況に追い込まれました。
その中で迅速に対応したのがLPガスでした。不安な状況で避難所での生活を送る人びとに、緊急の炊き出しなどで貢献しました。沢山の方が、LPガスの安全性に今一度注目したのではないでしょうか。
カネコ商会は、「地域への貢献が何よりも大事である」との考えから地域や協会などとの連携を図りながら避難所施設、仮設住宅への設備工事を行いました。また、緊急時にも活躍するLPガスの供給も行ってきました。これからは環境と福祉に取り組みソーラーシステムなどのエコ商品も強力に推し進めています。
第八回
焼き物の街ならではの発展がありました
日本一、暑い町として一躍有名になった多治見市
日本一、暑い町として一躍有名になった多治見市。フェーン現象にともなって夏場には37℃以上を記録した日数が日本で最多としても有名です。この多治見は、焼き物の街として全国に知られています。陶器と磁器を合わせた生産量は、日本一。
質の良い土に恵まれ、平安時代から美濃焼の生産で栄えた東濃地方。幕末に九州有田から磁器の製法が伝えられ、磁器原料に恵まれた風土を活かして生産の中心が磁器へとかわっていきました。
文明開化と共に国内外の需要が急速に増えていき、陶磁器産業の近代化とともに生産量は飛躍的に拡大しました。そんな風土や気候、歴史を背景に発展してきたのが、多治見ネットの昭洋商事さんです。創業以来、窯業用燃料の卸兼小売業として営んできました。
今では、名古屋まで電車でたったの30分という利便性からベッドタウンとして変遷しつつありますが、もともとこの地の人びとは殆どが窯業に携わっており、自然と昭洋商事さんのお客様は窯業に従事する方々が対象になります。
窯業を営む人びとは、家族単位の個人店から数人程度で営むお店など種々様々。作るものも洋食器や和食器、タイルなど多種多様なものを扱っています。子どもから大人、そして老人までみんなが窯業で働いている町ですから、我慢強く粘り強い気性の人が多く誰彼とも無く自然と人柄も円い人が多いです。
昔ながらのお付き合いを大切にする土地柄、昭洋商事さんのお仕事もお客様とのコミュニケーションを第一に据えての営業活動になります。
また、焼き物の街の特性を活かして卒業記念品やお祝い事のノベルティとしてマグカップやオカリナなどの思い出を作る「カトレア陶芸企画」事業や公園や地下道などの壁面を彩る「アートモザイク」事業も手がけています。さらにプロパン事業やサービスステーションを軸に、サービスステーションを活かした珈琲店にも進出。保険、不動産など事業を拡げています。
多治見は、どんどんベッドタウン化する中、人口の流入が多くなりエコブームの影響もともなって太陽光発電やホームセキュリティなど新しい分野での活躍が見込まれます。
第九回
自然にもまれた、抜け目のない商人気質の街
四国の一番東に位置し、大商業地近畿エリアに対面している徳島
徳島県は、四国の一番東に位置し、大商業地近畿エリアに対面しております。また徳島といえば「阿波踊り」が大変有名です。この祭は約四百年の長い歴史があり、日本三大盆踊りの一つ。1000組の連(チーム)が参加し、総参加者数は10万人超に上るといわれています。
ここ徳島に「うずしおネット」のシェル徳発さんがあります。昭和44年6月から創業し、プロパンガスを一般家庭に供給してきました。徳島市中洲町に拠点を置き、徳島市及び県内全土に営業活動を拡げています。また、太陽光発電システムや防犯システムの販売にも力を入れており、地元徳島の地域性にそった商品を提供していくことでお客様との?がりを大切にしています。
また阿波徳島には、通称「大きな果実」と謳われた吉野川が流れています。この大河が、もたらす自然の恵みは素晴らしく、農産物の多くが近畿地方へ出荷されています。栗に匹敵する糖質の甘さをもつサツマイモの「なると金時」をはじめ、香りの良いすだち、出荷量全国第二位のレンコン、いちご、しいたけ、ほうれん草と農作物が豊富に採れます。
更に阿波では藍染めが有名です。ジャパンブルーといわれる藍は、「青は藍より出でて藍より青し」ということばどおり美しい染め物。藍の収穫は8月に終わり、台風の害はまぬがれ、氾濫する吉野川が畑に肥沃な土を運んでくれる。江戸時代元禄の頃には、藍染め木綿衣料が著しく発展し藍商人とか阿波大尽とかいわれる豪商が登場しました。
「讃岐男に阿波女」という俗説があります。これは、吉野川を挟んだ話。川は無いが米の採れる讃岐地方の働き者の男と、水は豊富でも田地が無く水田をあきらめ藍染にせいを出す阿波地方の女をさします。お互い働き者同士で相性の良いカップルになるというお話しです。
自然の恵みと自然の猛威の中にある徳島と大消費地を目の前にした徳島。阿波の人びとはいつの間にか「親しみやすいが、抜け目ない商人気質」といわれます。おのずとシェル徳発さんの営業活動も抜け目のない緻密さを求められ、一軒一軒の地道な保安点検から始まる営業で、信頼を得ていく活動になるようです。
第十回
LPガスの歴史そのままの日本海ネット
プロパンガスと共に歩んできた、柏崎で長く地元の人びとに愛されている「日本海ネットの大和商事株式会社」。
新潟の上越、柏崎で長く地元の人びとに愛されている「日本海ネットの大和商事株式会社」。その社歴は、プロパンガスと共に歩んできた歴史といえます。一般的に全国でLPガスが使われ始めるのが昭和30年代ですが、先代の社長さんは昭和23年から本格的に始められました。それというのも新潟県は、もともと油田や天然ガスの産地であり、LPガスに取り組める環境がありました。LPガス自体は、昭和16年頃、油田や製油所で分離されたLPガスが、ガソリンの代替燃料として発展してきたと伺いました。
豊富な燃料の産出県なのでエネルギーの競合も激化していたようで、並々ならぬご苦労があったようです。新潟県エルピーガス協会の会長を長く勤められた先代の社長さんは、LPガスをリヤカーで運びながら一軒一軒の家を訪ねて、まだ薪などが燃料の常識だった時代に、この新しい燃料を啓蒙するために汗を流されたようです。また、手作りの宣伝カーを自ら作りアピールしたと伺いました。LPガスが、爆発的に増える直前の昭和30年代の下地には、この様な努力と工夫がありました。
新潟といえば、近年多くの災害に見舞われました。中越の水害、中越地震、中越沖地震など記憶に新しく、災害の様子も連日テレビで流されました。地元の災害にいち早く駆けつけ、復興に取り組んだのが、現在の大和商事(株)社長の五十嵐亮造氏(現新潟県エルピーガス協会会長)。災害対策本部を設置し、二次災害防止活動や避難所へのLPガス臨時供給などを行い、仮設住宅の建設にも携わり、連日眠れない日々が続いたといいます。
現在、五十嵐氏は、この時の経験を活かして災害に対する取り組みなどの啓発活動も行っておられ、日本全国から多くの講演依頼があるようです。「クリーンで、最も安全といえるLPガスをもっと私たちはPRしていくべきだと思います。」とお話しされました。 上越といえば山に閉ざされ雪深く閉鎖的になりがちな地域ですが、度重なる災害の経験や燃料産出の土地柄など、エネルギーや環境に対する考え方や対応が練られており、これからの指針になると思えました。
第十一回
革新性がLPガスの裾野を拡げる長良川ネット
長良川が街の中心を流れ金華山が雄々しくそびえる街、岐阜市
長良川が街の中心を流れ、金華山が雄々しくそびえる街、岐阜市。その歴史深さは、説明するまでもない有名な街であります。「美濃を制する者は天下を制する」といわれているように、京都に通ずる東海道と中山道を持ち、古くから戦略上要衝の地でありました。戦国武将らが群雄割拠し、斉藤道三が岐阜の街作りを果たし、この時代最大の武将といえる織田信長が、楽市楽座を開いた街でも有名です。
この岐阜市に先々代の薪炭の卸売りから始まり総合的なエネルギー商社と変遷し成長を続けているのが、長良川ネットの村瀬産業さんです。村瀬商店といわれていた頃(明治四十年代)は、長良川を活かし下流の揖斐川から桑名、名古屋の堀川と薪炭の行商をなさっていたそうです。
時は移り、先代(現会長)は、戦後から高度成長期にかけ、LPガスの販売を手がけるようになりました。しきたりを変えない保守的な土地柄にあって、村瀬産業さんは、全国でもいち早くガスのマイコンメーターを取り入れたり、お客様の立場に立った合理化を進めたりと様々な革新的改革を推し進めてきました。その結果、日本LPガス連合会(現社団法人エルピーガス協会)の会長を務め、平成15年春には、勲四等を戴くなどLPガス業界に貢献しています。
岐阜市は、長良川が運んでくれる肥沃な街でありながら、一度氾濫が起こると多くの災害に苦しんできました。このような厳しい環境の中で、輪中といわれる「仲間にはよいが、よそ者には厳しい。」という気質が生まれました。商売からみると、一度ハートを掴んでしまえば長く信用してくれてトコトン付き合ってくれる。律儀なお客様であるけれど、一方では信用がないとまったく刃が立たずどうにもこうにも動かない、頑固なところがあるそうです。
そういった中で長い間地元に貢献し、成長を続けてこられたのは、地道な地元に対する行き届いた対応にあったといいます。昨今のエコブームやソーラーエネルギーの活用など多くの課題があるエネルギーの世界。村瀬産業さんは、自社の伝統的な企業姿勢である「革新的な取り組み」を活かして成長を続けます。
第十二回
お客様主義を根幹に成長し続ける瀬戸内・あいネット
昭和37年に愛媛土居内のLPガス業者8社が合併してできた、共同ガス株式会社。
愛媛に拠点を置く共同ガス株式会社。昭和37年に愛媛土居内のLPガス業者8社が合併してできました。それから半世紀近く地元愛媛の中予、東予を中心に活動し、地域の方々に長く愛されています。
愛媛といえば、四国の一番西側にあり、海を隔てて北は広島・山口と面し、西は九州の東側に接しています。この間を流れる瀬戸内海と豊後水道は、水産物が大変豊かであり昔から漁業が盛んです。また、農産物も多く、丸い形のつぐね芋や栗、いよかんなどが有名です。気候は非常に温暖で、西日本最高峰の石鎚山天狗岳有し、海や山が、すぐ近くにありとても住みやすい地域です。
伊予水軍の伝統を受け継ぎ、海運業や海上交通が盛んであり、地の利を活かした製造・工業が発展しました。別子鉱山を中心とした住友閥の隆盛をはじめ、現在では、パルプや鉱業・タオルなども有名です。第一次産業から第二第三と豊かに産業が発展している地域です。
そして自然に恵まれ、天災も少ない土地柄です。その影響もあってか愛媛の人は、穏やかでのんびりとした方が多いと聞きます。四国の他県と比べて消費は、旺盛であり、自分のライフスタイルを充実させて楽しむ方が多いようです。
この様な環境の中にあって、地元に根ざした活躍をしている共同ガスさんは、主力のLPガスを中心に目覚ましい活動をしています。オリジナルキャラクターの「まもるくん」は、365日お客様を守りますをイメージにして、細やかなサービスの徹底を図っています。更に各分野への活動も盛んです。
お客様へ快適生活の提案として、四国で初めてのミネラル水製造プラント「ウォーターネット」をつくり、ミネラルウォーターの宅配サービスを開始しました。また、お客様の防犯・防災対策として、安全を守るセキュリティシステム「シェルリンクライフ」を提案しています。
特に飛躍的な発展を遂げているのが、これからのエコ活動に欠かせない太陽光発電システム。全国の取扱いでもトップクラスに入る優秀な成績です。この結果は何よりも、常にお客様本意を考え、先を見越した営業活動を展開した結果といえます。
第十三回
海上漁船舶石油販売から強固な土台を成した「東北の雄」
創業75年を誇る同社の発展の歴史は、漁船燃料である重油販売から始まりました。
宮城県仙台に拠点を置く仙台ネットの株式会社アベキ。創業75年を誇る同社の発展の歴史は、漁船燃料である重油販売から始まりました。
創業当時、お店のあった女川は、サンマの水揚げで代表的な港町。暖流と寒流が衝突する金華山沖は、世界三大漁場といわれています。漁船の活動が盛んであり、アベキさんは、この漁船に燃料をお届けする仕事を生業として始められました。船舶の活動範囲は、親潮に乗って自然と広域になります。それに従って漁業関係者から絶大な信用を得ていたアベキさんは、要請されるように各地に支店も増えていきました。 北は釧路から千島海流に沿って、青森八戸、岩手宮古、宮城では気仙沼、鮎川、石巻や塩釜、福島のいわき、そして南は千葉銚子と活動拠点が次第に増えていきました。漁港のあるところにアベキさんの支店が出来るという大きなネットワークが次第にでき上がっていったのでした。
プロパンガスを扱うようになったのは、船舶や漁港で働く家庭への供給が始まりでした。以来、ガソリンスタンドを設置したり、プロパンガスの充填所を作りながら、地域に根ざした企業として発展しました。現在では、海岸方面だけではなく、内陸にあたる古川や山形との県境にある東北屈指の温泉郷である鳴子までと宮城県全域及び岩手県や福島県にプロパンガスをお届けしています。
東北地方の太平洋側は、夏は酷暑が少なくて、冬は降雪量も比較的少ないという温暖な土地柄。奥羽山系を背景に豊かな水量を生み出しています。お米では、古川が源になるササニシキやひとめぼれも全国的に有名です。農作物は、日照時間も長いので豊かであり、漁業と共に大変盛んです。こういった土壌を下地として、人々の気性も穏便で情に厚い方が多く、全体的にあくせくせずのんびりしていて、おおらかな気風があり、そのうえ伊達家の影響なのか社交的な性格の人が多いと聞きます。
三陸海岸沿いに発展してきたアベキさんは、燃料の販売を中心とした総合的な生活創造プランナーを目指しています。住宅リフォームの提案や住宅設備機器の販売、そしてこれからの時代へ向けて新エネルギーなどを提案しています。
第十四回
日本の中心ならではの発展がありました
今年で101年目を迎える、古い歴史のある「清川商店」。
清川商店のある豊橋は、昔から城下町、宿場町として栄えた街であり、交通の要所でもあることから歴史の舞台に幾度となく上がります。古くは、戦国の世に徳川家康の祖父の松平清康が平定し、その後、一時は今川氏の傘下になるも桶狭間の戦いで家康の所領になりました。江戸期には譜代大名として吉田藩が長く治めました。この三河は、我が国の礎を築いたともいえ、この土地の風情がそのまま江戸の風流となったといっても過言ではありません。よく神奈川などで使われる「じゃんことば」はこの地域の言葉が発祥です。
豊橋は、渥美半島の付け根の部分に位置し、三河湾と太平洋側の遠州灘に挟まれた場所にあります。市内をアルプス山脈から流れる豊潤な豊川が流れ、一帯は、高い山がほとんど無い平坦な街です。またこの街は、我が国の動脈といえる東海道、国道1号線、東海道新幹線が走り、海では三河港など自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっています。ほぼ日本の中心といえる場所なので東は東京、西は中京名古屋や関西の京都・大阪へと大都市へ物資を簡単に運べる重要な交通の要衝になっています。
このような要の地に「じゃんだらりんネット」の「清川商店」はあります。清川商店の歴史は古く今年で101年目を迎えます。薪炭をベースの生業としていましたが、昭和37年頃プロパンガスをいち早く導入し、その後の近代化を図りました。文化の混入するこの地には、東に甲州商人、西に近江商人など地元の商売はもとより様々な商人達の戦場でもあり、激戦区でもあります。
清川商店が一世紀以上も堅牢に生業が続いた理由の一つとして、徳川家康の「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」の訓辞の如くせっかちにならず、律儀に一歩一歩確実に進むという真摯な姿勢を地元の人々に理解していただいた結果だと思われます。
これからの時代に向けて清川商店は、現在もっとも注目を集めている最先端の太陽光発電に力を注いでいます。また、住宅リフォームや給湯器など身近なニーズも手がけ、さらにお客様の満足と信頼を勝ち得るビジネスにチャレンジしています。
第十五回
日本の原風景は、厳しい自然の中にありました
奥の細道。松尾芭蕉に「静けさや 巌にしみいる 蝉の声」と謳われた山形県。
奥の細道。松尾芭蕉に「静けさや 巌にしみいる 蝉の声」と謳われた山形県。日本の原風景が沢山残されており「おくりびと」「武士の一分」などの映画のロケ地になることも多い地方。また、素朴な人が多いといわれ、そのなかでも今回紹介する「花笠ネット」の千代田商事は、山形市の北部地域あります。
この地方は、人なつっこくて「人と人の付き合い」を大事にする気風だといいます。社会現象にもなったあの有名なテレビドラマ「おしん」の舞台でもありました。放映当時「おしん、家康、隆の里」という流行語も生まれたように我慢強く、誠実で正直な人が多い風土です。
山形市は、山形盆地の三分の一を占める場所にあり、夏場にはフェーン現象に見舞われて猛暑日になる日も多く、平成19年に埼玉県深谷市と岐阜県多治見市に抜かれるまで、長く日本一暑い場所として有名でした。冬場は、雪が一晩で50センチ積もることがある豪雪地帯。 この豊かで厳しい自然は、多彩な農産物を産みました。特に「山形は果樹王国」として知れ渡っています。中でも、サクランボやラフランス、スイカはとりわけ有名です。他に米所酒所としても有名です。最近では、ブランド米に力を入れており、平成22年10月にデビューした改良米「つや姫」がブランド米として評価が高く、冷めても美味しいといわれています。
こういった背景の中で、育まれた千代田商事は、昭和25年に薪炭事業をスタートさせました。昭和45年には、大野目(だいのめ)にガスセンターを設置し、翌々年の47年に充填所を完成させて着々と事業展開して成長してきました。 また、灯油の消費も雪国ですから大きな事業の柱。目立ったことを嫌う気風の中で「きめ細やかな人と人とのお付き合い」を最も大事な仕事と考え、プロパンガスをベースにぶれない生業を根幹としています。
今現在、最も力を入れているリフォーム事業や身近な給湯器などのニーズも「人との?がり」を重視して、地元に貢献する企業として活躍しています。更に需要が伸びていく「太陽光発電」などのエコ産業にも今後、果敢に取り組んでいきます。